takanikoniko’s blog

本とお出かけと時々ドール。

カイゼン・ジャーニー

市谷聡啓・新井剛

『カイゼン・ジャーニー』

 

を読んだよ!

 …といってもあっさりと挫折したのですがね!

タイトルだけ見るとトヨタ的なあれを想像すると思いますが、中身はバリバリのIT系。

一人でできるタスク管理、チーム単位でのプロジェクトの進め方などなどですが、

はっきりいってIT系…とくにプログラマーでなければ理解できないのではないかな。

俺はその辺の前提となる知識が全くないので何を言っているのかさっぱりなところが

ほとんどだった。

正直中身の感想を書けるほど理解できてない。

他業種でも応用できるものはあると思うけど、それならその業種向けに

書かれたものを探した方がいい。

 

とりあえず、IT系で仕事してる人であれば試しに手にとってもいいかもしれないが、

それ以外の人はあまり意味がないかなあ。

 

 

 

 

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ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』感想。

ヴィトゲンシュタイン

『論理哲学論考』

 

を読んだよ!

 

「語り得ぬものについては…」という言葉で有名なこの本。

今回の日本語訳では

語ることができないことについては、沈黙するしかない。

と、訳されています。

 

さて。

いつもは記事のタイトルに【書評】ってつけますが、今回はそういう訳に行かない。

なにせ碌に理解できなかったからな!

まじで難しいぞこの本。でも不思議と頭を悩ませたく魅力がある。

 

まず、この本はヴィトゲンシュタインが言いたいことが大きく分けて7つあります。

そのうち6つを紹介しましょう。

1.世界は、そうであることのすべてである。

2.そうであること、つまり事実とは、事態が現実にそうなっている

ことである。

3.事実の論理像が、考えである。

4.考えとは、有意味な命題のことである。

5.命題は、要素命題の真理関数である。

(要素命題は、それ自身の真理関数である)

6個目はどうやって入力すればいいのか分からなかったので、正確さに欠ける。

気になる人は現物を当たってほしい。

6.真理関数の一般的な形式は、こうだ。

[¬p、¬ξ、N(¬ξ)]

これは、命題の一般的な形式である。

本の中では1についてのコメントが書かれていき、

最後まで行けば2についてのコメントが…となる。

まあぶっちゃけ

何を言ってるのかさっぱりわからん!

これ理解出来るやつとかホントにいるのかよ…。

いやそれこそ研究者レベルじゃないと分からんのではないかこれ。

俺なんか1.1で挫折したぞ…(すなわち2行目である)。

ここからさらに語るのかよ…と思って頭を抱えたがとにかく流し読みして、

最後までたどり着いた。

そしてその最後の一文が

7.語ることができないことについては、沈黙するしかない。

お前ーーーーーーーーーーー!

ここまで散々語っておいて

最後の最後にそれかよおおおおおおおおおおおお!

となるのであった…。

ほんと「論考」の一番有名な台詞の登場がここかよ…。

これだけ散々語っておいて、語ることができない事があるってマジかよ…。

ホントに何をどう考えてたんだヴィトゲンシュタイン…。

 

という訳で、完全に挫折したのでした。

今後読もうと思う人は、理解しようと思ったらGWくらいではとても足りないので

覚悟してほしい。

それでもなお挑もうと言う人は、4.112のこの文章が納得いくかどうかで挑むかどうか

決めて欲しい。

哲学の目的は、考えを論理的にクリアにすることである。

哲学の目的は学説ではなく、活動である。

哲学の仕事の核心は、説明することである。

哲学の仕事の成果は、「哲学の命題」ではなく、命題がクリアになる

ことである。

哲学がするべきことは、ふだん、いわば濁っていてぼやけている考えを、

クリアにして、境界をはっきりさせることである。

 

 

 

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【お知らせ】はてなproやめます【金がない】

そろそろ貯金もつきそうなので、はてなproで独自サーバーを立ててブログをやるのは

この辺でやめる事にしました。

 

これは永久にやめるということではなく、またお金が貯まってきたらやりますという

レベルの話です。

諦め悪いですね。(早ければ来年かも)

 

それと関連して、ブログのデザインも変えます。

7月頃に期限が来るので、それまで見た目がころころ変わると思います。

 

 

 

 

【書評】人生にひらめきの瞬間を! エドワード・デボノ『水平思考の世界』感想。

エドワード・デポノ

『水平思考の世界』

 

を読んだよ!

 

  

ざっくりまとめ

考え方を変えて「大発見の瞬間」を目指せ!

もうちょっと詳しく

この本は確か読書術の本で紹介されてたんじゃなかったけ…。

それで読みたい本のリストにブチ込んだ気がする。

そもそも”水平思考”ってなんなんだって話なんですが。

垂直思考と水平思考の違い

垂直思考が高い確実性を志向するものであるならば、

水平思考は低い確実性を志向する。

訳が分からないよ。

垂直思考は同じ穴をより深く掘ることであり、

水平思考は他の場所でやり直すことである。

なんとなくわかってきたぞ。

「Aから書き始めてZまで書け」という問題に対して、

A,B,C…Zとと書くか、

A,Zって書くやつの違いじゃないかなあ?

え、ずるいって?

だれも「Aから書き始めて”アルファベットの順に”Zまで書け」なんて言ってないよ。

そんなに水平思考推しなら、学校で教えればいいのに

まあ仮に上みたいなひねくれた事を言い出すようなのが水平思考だというのなら、

教えるわけがないよなあ。

そもそも

教育は先達がすでに掘ってくれた穴のありがたみを

分からせるように設計されているからだ。

教育がそれ以外のことをしようとすれば、混乱をもたらすだけだろう。

じゃあどうやったら水平思考ができるようになるの?

1.支配的なアイデアを認識すること

2.さまざまなものの見方を探し求めること

3.垂直思考の強い支配から抜け出すこと

4.偶然の機会を活用すること

の4つが基本原則らしい。

…まあ1と2はまあいい。3と4はちょっと待てと言いたい。

3ができる人なら、そもそも”水平思考ができている人”なのだから

いまさら「水平思考ができるようになる」必要はないし、

4なんか起こるかどうか分からないものに「出来るようになる」なんて無理だろう。

とりあえずは1と2が出来るようになるのが目標でもいいんじゃないか?

その他に気になった事

それはイカサマだ!

いかさまだという非難が強ければ強いほど、その非難を口にする人々が

実際には存在してもいない厳格なルールと仮定に縛られている

すべての段階で常に正しくなければならない

垂直思考の限界として挙げられているのがこれ。

「AはBである。BはCである。ゆえにAはCである。」

この三段論法が成立するためには二段目が正しくなければならないのだが、

そんなことがいつもいつも出来る訳でもないし、時間がかかかる。

これがまた弱点にもつながる。

垂直思考をする人が頭の中で考えることは予測がつくので、

他人に利用されやすいのだ。
他人に利用されやすい?

まあ確かに、AだからB→BだからC→CだからD…と数珠つなぎに考えるようなら

読みやすいと言えるだろうが…。

さてここでこの漫画に登場してもらおう。

 

 こちら、俺の大好きなシリーズなのだが(完結済み)この巻にこういう話がある。

奴は少々癖があるが優秀な男だ。放っておけば最善の仕事をするだろう。

バカ者。「最善」の仕事は大抵決まっている。

次に何をするか読みやすくてむしろ扱いやすい。

これに通じるところはありますけど、そもそも、

「読みやすい」以前に「読める」人間がどれだけいるのかと言う話でしてねえ…。

第一、そこまで人間は論理的に動くか?という疑問がある。

まあ、「利用されやすいから垂直思考は止めよう!」というのは誇張だと思います。

まとめ

突っ込みどころが多い感じですが、「これを読めば出来るようになる!」系の

本ではないですね。

「頭を柔らかくする」という目的の基礎としてはいいんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

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【書評】吾輩はカップ焼きそばである。お湯はまだない。 神田桂一 菊池良『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』感想。

神田桂一 菊池良

『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を

書いたら』

 

を読んだよ!

 

 

ざっくり紹介

完璧に中身を紹介したタイトルです。

文学史上に名を残した文豪に始まり、ブロガー、ユーチューバー、シンガーに

週刊誌と「文豪以外」にもバラエティに富んだ面々が登場します。

あくまでも「本人が書いたなら」なのでそこはご注意を。

読んで、ご本人にクレームをつけないように!

 

その面々の中で僕のお勧めですが、

・松尾芭蕉

・紀貫之

・西野亮廣

・道徳の教科書

の4人(?)はなかなか面白いですね。

とくに道徳の教科書とかはうまいですよ。

良くある「大人になった私へ」のノリで、「5分後の私へ」ですもん。

これはもうナイスアイデアとしか言いようがない。

 

ちなみに夏目漱石の箇所は「吾輩は猫である」を元ネタにしてはいないので、

この記事のタイトルはネタバレではありません!

 

まとめ

「はじめに」に

この本は軽く読んではははと笑って、ページを閉じた瞬間に全てを

忘れるような本を目指して書かれた。

とあり、その目的は達成されていると見てよいでしょう。

「推しの文豪を読んで笑って、推しでない文豪のを読んで面白いと思ったら

元ネタを読む」という読み方もあると思いますが、やっぱり

軽く読んではははと笑う

のが一番じゃないでしょうか。

さっと読んでさっと忘れる、ある意味この本もカップ焼きそばなのかもしれませんね。

 

 

 俺の推し焼きそばはこちら

 

 

 

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【書評】この話に結論はでるのか 村松 太郎『「うつ」は病気かあまえか。』感想。

村松太郎

『「うつ」は病気か甘えか。』

 

を読んだよ!

 

  

ざっくりまとめ

「うつ病」と言われてもよくわからない。元気そうだし、休んでる間でも旅行に

行ったりして遊んでるようだし…。

だいたい、それぐらいでへこたれてたらこの先やっていけないよ?

甘えてるんじゃないの?

 

そんな疑問に答えましょう!

 

もうちょっと詳しく

こちらで少し話題に出した

www.takanikonikosblog.com

 この本でございます。

「うつ病は甘えか違うのか」。「うつ病」という単語が登場してから今日まで、

散々繰り返されているこの問題。

これに対して医者目線で挑んだのがこの本。

こういう本って、結局どっちなんだ?ってなる事が多いように感じるけれど、

この本での結論はこうなる。

うつ病は病気である。

しかし、「うつ病」という記号は、病気か甘えかわからない。

……は?

いやちょっと何言ってるか分からないんだが…?

まあ最初はわかる。問題は後半だ。

『「うつ病」という記号は、病気か甘えかわからない」』

…やっぱりわからん。

「うつ病」の理由はなんだ?

そもそも「うつ病」には2種類あるらしい。

「原因があるもの」と「原因がないもの」だ。

現在「うつ病」と言われている人はここからもう理解不能なんじゃないだろうか。

「いやだって、職場がブラックでストレスが貯まってうつ病に…」

というのがよくあるパターンなのだから。

「職場がブラックで…」というのが「原因があるもの」で

特に原因もないのに「うつ」になるのが「原因がないもの」で、本当に病気なのだ。

なんでやねん!と思うかもしれないが、考えてみて欲しい。

「元気がない」「やる気が起きない」とかいうレベルではなく、

一切の感情のコントロールが効かない状態になってしまったら。

葬式で急に笑ってしまったら。それどころか一日中笑いが止まらないような状態に

なってしまったら。

これは病気としか言いようがない。

だが今「うつ病」と聞いたらそんな状況は思い浮かばないだろう。

だから誰も分からないのだ。

ストレスって原因なのか?

うつ病の原因ってだいたい「ストレス」にされてしまう。

しかし、

ストレスで落ち込むのが、なぜ病気なのか?

こう来るのだからこの著者は容赦ない。

おまけに、

大体、ストレスという日常の事柄を、薬で解決しようっていうのは

どういう了見なのか。

と畳み掛けてくるから本当に容赦ない。

とはいえ、

ストレスによる落ち込みは誰にでも経験がある。そして時間がたてば

回復する。処方箋は「時間」だ。「薬」ではない。

 と書いているあたりはちょっと優しいのかもしれない。

結局どういうことなんだ?

「うつ病」という病気が拡大解釈されすぎなんだよ!

ってことなんじゃないかなあ。

 

 

まとめ

文章は堅苦しくなく軽妙なので凄く読みやすいですが、いかんせん中身は

「うつ病」を滅多切りにしていきますし、生活に役立つような事も書いてませんので、

実際にお悩みの方はあまりすすめません。

どっちかというと「うつは甘えだ!」って考えてる人向けの本じゃないでしょうか。

 

 

 

 

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【書評】古代ローマ人は人生をどの様に捉えたのか? 『超訳 古代ローマ三賢人の言葉』感想。

『超訳 古代ローマ三賢人の言葉』

 

を読んだよ!

 

  

ざっくりまとめ

キケロ、セネカ、アウレリウス。この古代ローマの賢者たちは人生を

どう捉えたのか。その名言をまとめてみた!

もうちょっと詳しく

登場する三人は、

マルクス・トゥッリウス・キケロ - Wikipedia

ルキウス・アンナエウス・セネカ - Wikipedia

マルクス・アウレリウス・アントニヌス - Wikipedia

です。

哲学者と皇帝とか不思議な組み合わせですが、この人材の豊かさが

古代ローマの強みなのかもしれませんね。

 

本の中身は各人の著作から名言を引用してまとめられたものなので、

それぞれの著作を読んだ事がある人にとってはあまり意味のないものですね。

読んだ事が無い人にとってはまあまあ面白いかもしれませんが。

それでも、いろいろな年齢を対象にしている感がするので読むタイミングによって

「為になる名言」が異なるので、全部読んでも納得できる部分を見つけるのに

疲れると思います。

 

個人的には、自分探しの旅に出る人に対して

そんな旅は無駄で、子供じみた遊びにすぎない。

とか

心を成長させたければ、旅に出るよりも、いまいる場所でできる

努力をせよ

なんて書いてあるのを見て「昔も自分探しの旅に出る人っていたんだ…」

ってちょっと笑ったり、

絶対の正義とは絶対の嘘であり、したがって絶対の不正なのである。

とかを見て、最近の「我こそは正義である!」とか思ってる人たちは

これを見てどう思うんだろうなあwとか考えてました。

 

 

 

まとめ

本全体としては項目数の割に文字数は少ないし、内容もいいとは思うんですが、

「面白いか?」と問われると「それほどでも…?」って印象です。

正直、「なんでこれを長い間”読みたい本リスト”に入れてたんだ?」と

不思議に思うくらいですね。

とはいえ、それぞれの著作に触れるためのとっかかりとしては良いと思うので

気になる人がいれば読んでみても良いんじゃないでしょうか。

個人的にはアウレリウスの自省録とか読みたくなりましたね。

 

 

 

 

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【書評】”ほんもの”ってなんだろう? マージェリィ・W・ビアンコ『ビロードのうさぎ』感想。

マージェリィ・W・ビアンコ

『ビロードのうさぎ』

 

を読んだよ!

 

www.takanikonikosblog.com

この本つながりでもう一冊。

原作者さんが1944年に亡くなっているので、かなり古い本になります。

俺が手にしたのは、2007年に初版が出版されたものですね。

それなのに63刷目とかどんだけ凄いんですか。

 

さて、この本はうさぎのぬいぐるみと、それをもらった男の子とのお話です。

 

男の子はうさぎのぬいぐるみを貰って喜ぶのですが、また別のおもちゃを貰い、

そっちに夢中になります。

すっかり部屋のすみで置いておかれているうさぎは、別のおもちゃ達から

ばかにされてしまいます。

 

ある日、家政婦さんによって偶々男の子と寝る事になったうさぎ。

その日から男の子とうさぎは仲良くなっていきます。

しかし男の子は病気になり…というのがおおまかなあらすじですね。

 

個人的に気になったのは、

うさぎを「ほんもの」として扱う男の子と、あくまで「おもちゃ」としか扱わない

家政婦さんとのギャップ。

それから「ほんものとはなにか?」ですね。

それに他のおもちゃ達から「ほんものではない」と言われ、

生物としてのうさぎ達からも「ほんものではない」と言われたうさぎ。

唯一男の子だけは「ほんもの」と扱うのですが、

じゃあ「ほんものとはどういう状態のものをさすのか?」という疑問に

答えが欲しくなります。

主観において「ほんものである」ものは客観において「ほんものではない」

という事が成立しうるという事ではあるんですけどね。

このあたり、人形メディア学でも触れられているのでそちらも読んでみてください。

 

なお、物語の結末は「もしかしたら日本人なら改変するかもしれないなあ」

と思っているのですが、他の人はどう思っているのだろう。

 

 

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【書評】我らが家族の一員として マーク・ニクソン『愛されすぎたぬいぐるみたち』感想。

マーク・ニクソン

『愛されすぎたぬいぐるみたち』

 

を読んだよ!

こちらの本、以前読んだ「人形メディア学講義」で紹介されていたので

 

www.takanikonikosblog.com

 

手に取ってみました。

表紙を飾るこちらのクマのぬいぐるみですが、なんというか「怒り」に近い

感情を持っているような印象を持ちます。

でもなんか憎めない表情ですよね。「てやんでえ!」って言ってるような気がします。

「ここから先は行かせねえ!」みたいな感じでもあるかな。

そのボロボロになった体からすると後者の方が合ってるかもしれません。

そう。このくまのぬいぐるみ、ボロボロなんです。

 

この本にには、持ち主の所で過ごした結果ボロボロになってしまったぬいぐるみ達

ばかりです。

手足や耳が千切れかかっていたり、中の綿が飛び出しかけたり、表面の毛が抜けて

生地がまる見えになっていたり…とおよそ”かわいい”という表現からは離れてしまった

ぬいぐるみ達です。

前出の「人形メディア学講義」においてこの本が紹介されている箇所で

遺体とか遺影のようだというコメントがあったと記憶していますが、

その表現がぴったりです。

 

そのため、ふつうの「ぬいぐるみの写真集」ではないのでかなり読む人を選びます。

万人におすすめ出来るものではないのですが、家に大切にしてあるぬいぐるみが

いる人には「こんなになるまで持っている人がいる」というのを示してくれる

本なので、「まだ持っていよう」という気にしてくれるかもしれません。

 

どうにも複雑な気分になる本なので、まとまりがつかないのでこの辺りで

終わりにしておきます。

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我が家のぬいぐるみ達

 

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【書評】 菊池浩平『人形メディア学講義』感想。

菊池浩平

『人形メディア学講義』

 

を読んだよ!

 

はじめに

まずはこちらをご覧ください。

book.asahi.com

ここで紹介されている本が、今回読んだ「人形メディア学講義」です。

俺がこの本を知ったのはツイッターで「ドール者におすすめ」って感じの

呟きを見たからですが。

 

第一章の「トイ・ストーリー」の分析からガチャピン、ふなっしー、ゴジラ、

ラブドール、リカちゃん、アンパンマンと最後まで本当に面白かった。

ドールオーナーとして面白かったのは、

第五章「もてあます、人形へのその愛」かな。

人形メディア学ってなんだ?

上のリンク先にも書かれているのですが、改めて本の中から引用させてもらおう。

ここでいうメディアとは、一方から他方へ情報を伝達する媒介という狭義

のものではなく、

マーシャル・マクルーハンが『メディア論―人間の拡張の様相』において

提起した広義のものを指す。

マクルーハンは、人間の作り出すあらゆるものがメディアであり、

媒介される内容だけでなくメディアそれ自体を分析することの必要性を

訴えた。

なぜならメディアとは人間身体の拡張/延長/外化であり、

それ故に無色透明な媒介であることはあり得ず、あらゆる主観と

紐付くことを宿命づけられた存在であるからだ。

そして、いうまでもなく人形もまたメディアに他ならない。

「…?あーうんそういうことねー(わかってない)」

という感じの台詞が浮かびそうな話だ。

「人間身体の拡張/延長/外化ってなんやねん?」ってわけなんだが。

goo辞書いわく、

拡張とは

範囲や勢力・規模などを広げて大きくすること。

延長は6個も意味が紹介されているので、当てはまるのはこれだろうか。

長さや期間を延ばすこと。また、延びること。

ひと続きのもの。つながるもの。

哲学で、物体が空間を占める存在の様式。延長を物体の本性として物そのものに帰属させる立場(デカルト)と、純粋直観の形式として主観に帰属させる立場(カント)とがある。広がり。

dictionary.goo.ne.jp

外化は載ってなかったうえに、使われる場面で意味が色々と変わるみたいで

困った…。

とりあえず「アウトプット」とか「外へ出す」という感じで良いと思う。

となると、

 

人形は人間身体の範囲などを広げて大きくする。

人形は人間身体の長さを延ばし、ひと続きのもの。

人形は人間身体のアウトプットであり、外へ出すもの。

人形はあらゆる主観と紐付くことを宿命づけられた存在。

 

ということになる。余計に訳が分からなくなった…。

だが。

なんとなーくではあるが納得したことがある。

家にはドールがある。いや、居る。

リカちゃんを持っている(暮らしている)人だっているだろう。

彼女たちに話しかけるのみならず”会話”した人もいるだろう。

俺だって、

とかやっている。

しかしだ。どう考えてもこの子に台詞を考える脳はないし、発声器官もない。

全て俺の脳内で行われていることだ。

という事は、脳内に俺とこの子の二人が存在していると言えるのではないか?

それはすなわち人間身体の拡張であり、延長であり、外化であり、

俺の主観と紐付いた存在であると言えるだろう。

なるほど、人形はメディアである。

そして、こういう事を研究するのが「人形メディア学」と呼んでいるものでは

ないかと思っている。

人形は捨てなければならないのか

この問いは第五章の中の一節である。

この問いもドールオーナーとしては重大な問題だ。

ぬいぐるみであれば、新しいのを買うという選択肢もなくはない。

しかし、プレミアがついて簡単に買えなくなったドールや

カスタムされた子、すなわち再生産不能なドールを持っている人もいる。

それなのに、「捨てなければならない」というのはとんでもない事である。

 

ここではドナルド・ウィニコットが提唱した「移行対象」という概念が

紹介されている。

「移行対象」とは、分かりやすく言ってしまえばスヌーピーに出てくる

「ライナスの毛布」である。

もし、ある成人が自分の主観的現象の客観性を認めるよう要求する

ならば、私たちはその人を狂気と理解するか、狂気と診断する。

しかし、その人がそんな要求をせず個人的中間領域を上手に

楽しめるなら、 私たちも自分自身の同様の中間領域に気付くことができ、

お互いの中間領域がある程度重なり合っていることを発見すると

うれしく感じるのである。

 

ここでウィニコットは、移行対象とは主観と客観が交差する中間領域に

存在し、成人にとってもそれなりに許容され得ると述べる。

ライナスにとって毛布はとても大切なものだが、他の人間にとってはただの毛布だし、

それを大切にする事がまったく理解できない。

もしここで、「この毛布はとても大切なものだから大切に扱え」と

ライナスが要求すれば、その瞬間に狂人扱いされるだろう。

しかし、彼はそうしないからスヌーピー達と上手くやれているのではないだろうか。

もし俺が「うちのこも人間と同じように扱え!」と家族に要求すれば、

その瞬間に精神病院送りであることは疑いようがない。

しかし、俺はそんなことはしていない(今のところ)。

なぜなら、俺にとっては大切だが他人にとっては単なる”物”であることを理解している

からだ。

これは本の中で

人形はモノと生き物の間を行き来しつづけ、(中略)

まさに人形は主観と客観の中間領域に存在している。

ということと同じだと思う。

 

筆者は最初の問いに答えてくれているので、それも引用させてもらおう。

仮に人形を捨てなければならないと強要してくる者がいるとすれば、

それは人形劇を楽しんでいる観客に向かって

「あれは生きていない!単なる人形だ!」と言ってくるような

野暮なやつということになろう。

そんな輩のいうことを聞く必要がないことは明らかである。

人形を無理に捨てる必要などない。

自分が適当だと思う距離感で彼らと接すればいいだけだ。

まとめ

ここに取り上げたのは、個人的に気になったポイントだけだが、

それ以外にもとても面白い。

「トイ・ストーリー」好きの人は第一章はぜひ読んでほしいし、

ゴジラ好きはゴジラの造形について書かれているので第三章はお勧めだ。

アンパンマン好きの人は第八章を読むと、あなたのアンパンマン観が

ひっくり返るかもしれない。

人形に興味がない人も読んでほしい。

 

 

 

 

 

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