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【書評】 菊池浩平『人形メディア学講義』感想。

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菊池浩平

『人形メディア学講義』

 

を読んだよ!

 

はじめに

まずはこちらをご覧ください。

book.asahi.com

ここで紹介されている本が、今回読んだ「人形メディア学講義」です。

俺がこの本を知ったのはツイッターで「ドール者におすすめ」って感じの

呟きを見たからですが。

 

第一章の「トイ・ストーリー」の分析からガチャピン、ふなっしー、ゴジラ、

ラブドール、リカちゃん、アンパンマンと最後まで本当に面白かった。

ドールオーナーとして面白かったのは、

第五章「もてあます、人形へのその愛」かな。

人形メディア学ってなんだ?

上のリンク先にも書かれているのですが、改めて本の中から引用させてもらおう。

ここでいうメディアとは、一方から他方へ情報を伝達する媒介という狭義

のものではなく、

マーシャル・マクルーハンが『メディア論―人間の拡張の様相』において

提起した広義のものを指す。

マクルーハンは、人間の作り出すあらゆるものがメディアであり、

媒介される内容だけでなくメディアそれ自体を分析することの必要性を

訴えた。

なぜならメディアとは人間身体の拡張/延長/外化であり、

それ故に無色透明な媒介であることはあり得ず、あらゆる主観と

紐付くことを宿命づけられた存在であるからだ。

そして、いうまでもなく人形もまたメディアに他ならない。

「…?あーうんそういうことねー(わかってない)」

という感じの台詞が浮かびそうな話だ。

「人間身体の拡張/延長/外化ってなんやねん?」ってわけなんだが。

goo辞書いわく、

拡張とは

範囲や勢力・規模などを広げて大きくすること。

延長は6個も意味が紹介されているので、当てはまるのはこれだろうか。

長さや期間を延ばすこと。また、延びること。

ひと続きのもの。つながるもの。

哲学で、物体が空間を占める存在の様式。延長を物体の本性として物そのものに帰属させる立場(デカルト)と、純粋直観の形式として主観に帰属させる立場(カント)とがある。広がり。

dictionary.goo.ne.jp

外化は載ってなかったうえに、使われる場面で意味が色々と変わるみたいで

困った…。

とりあえず「アウトプット」とか「外へ出す」という感じで良いと思う。

となると、

 

人形は人間身体の範囲などを広げて大きくする。

人形は人間身体の長さを延ばし、ひと続きのもの。

人形は人間身体のアウトプットであり、外へ出すもの。

人形はあらゆる主観と紐付くことを宿命づけられた存在。

 

ということになる。余計に訳が分からなくなった…。

だが。

なんとなーくではあるが納得したことがある。

家にはドールがある。いや、居る。

リカちゃんを持っている(暮らしている)人だっているだろう。

彼女たちに話しかけるのみならず”会話”した人もいるだろう。

俺だって、

とかやっている。

しかしだ。どう考えてもこの子に台詞を考える脳はないし、発声器官もない。

全て俺の脳内で行われていることだ。

という事は、脳内に俺とこの子の二人が存在していると言えるのではないか?

それはすなわち人間身体の拡張であり、延長であり、外化であり、

俺の主観と紐付いた存在であると言えるだろう。

なるほど、人形はメディアである。

そして、こういう事を研究するのが「人形メディア学」と呼んでいるものでは

ないかと思っている。

人形は捨てなければならないのか

この問いは第五章の中の一節である。

この問いもドールオーナーとしては重大な問題だ。

ぬいぐるみであれば、新しいのを買うという選択肢もなくはない。

しかし、プレミアがついて簡単に買えなくなったドールや

カスタムされた子、すなわち再生産不能なドールを持っている人もいる。

それなのに、「捨てなければならない」というのはとんでもない事である。

 

ここではドナルド・ウィニコットが提唱した「移行対象」という概念が

紹介されている。

「移行対象」とは、分かりやすく言ってしまえばスヌーピーに出てくる

「ライナスの毛布」である。

もし、ある成人が自分の主観的現象の客観性を認めるよう要求する

ならば、私たちはその人を狂気と理解するか、狂気と診断する。

しかし、その人がそんな要求をせず個人的中間領域を上手に

楽しめるなら、 私たちも自分自身の同様の中間領域に気付くことができ、

お互いの中間領域がある程度重なり合っていることを発見すると

うれしく感じるのである。

 

ここでウィニコットは、移行対象とは主観と客観が交差する中間領域に

存在し、成人にとってもそれなりに許容され得ると述べる。

ライナスにとって毛布はとても大切なものだが、他の人間にとってはただの毛布だし、

それを大切にする事がまったく理解できない。

もしここで、「この毛布はとても大切なものだから大切に扱え」と

ライナスが要求すれば、その瞬間に狂人扱いされるだろう。

しかし、彼はそうしないからスヌーピー達と上手くやれているのではないだろうか。

もし俺が「うちのこも人間と同じように扱え!」と家族に要求すれば、

その瞬間に精神病院送りであることは疑いようがない。

しかし、俺はそんなことはしていない(今のところ)。

なぜなら、俺にとっては大切だが他人にとっては単なる”物”であることを理解している

からだ。

これは本の中で

人形はモノと生き物の間を行き来しつづけ、(中略)

まさに人形は主観と客観の中間領域に存在している。

ということと同じだと思う。

 

筆者は最初の問いに答えてくれているので、それも引用させてもらおう。

仮に人形を捨てなければならないと強要してくる者がいるとすれば、

それは人形劇を楽しんでいる観客に向かって

「あれは生きていない!単なる人形だ!」と言ってくるような

野暮なやつということになろう。

そんな輩のいうことを聞く必要がないことは明らかである。

人形を無理に捨てる必要などない。

自分が適当だと思う距離感で彼らと接すればいいだけだ。

まとめ

ここに取り上げたのは、個人的に気になったポイントだけだが、

それ以外にもとても面白い。

「トイ・ストーリー」好きの人は第一章はぜひ読んでほしいし、

ゴジラ好きはゴジラの造形について書かれているので第三章はお勧めだ。

アンパンマン好きの人は第八章を読むと、あなたのアンパンマン観が

ひっくり返るかもしれない。

人形に興味がない人も読んでほしい。

 

 

 

 

 

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