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【書評】さらばフランダースの犬 アン・ヴァン・ディーンデレン『誰がネロとパトラッシュを殺すのか』感想。

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アアン・ヴァン・ディーンデレン

『誰がネロとパトラッシュを殺すのか』

 

を読んだよ!

 

初めに

「フランダースの犬」

日本人で聞いた事がない人はいないであろう名作。一般的にはアニメの印象が強く、

「金髪の少年とセントバーナードのような犬」を思い浮かべるでしょう。

 

フランダース地方の豊かな自然、アロアやおじいさん。

そして才能を認められず飢えと寒さの中で

パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ。

と天に召されるネロとパトラッシュ…。

 

日本では名作として、悲劇として知られているこの物語ですが。

もし二人がこの後現実世界において助かる結末があったらどうだろうか?

アロアと結婚し、才能も認められ、裕福な生活を送ったとしたら?

「そんなフランダースの犬なんてあるわけないだろう」と思うかもしれないですが、

存在するんです。

しかし、それは「フランダースの犬」なのか?

なぜそんなものが存在するのか?

この本は、一つの物語が世界でどの様に受け入れられたのか。

文化圏の違い、アニメの舞台の聖地巡礼と現地の確執など

この名作に関わる様々なお話が展開されていきます。

作者は誰だ?

 作者は「マリア・ルイーズ・ラメ」という女性です。ペンネームは「ウィーダ」。

この本では

ウィーダは本当の意味でベストセラー作家であり、半世紀もの間

ヒット作品ランキングの上位常連だった。

とまでいわれる、作家です。

もともとはイギリスで活動していたのですが、ベルギーに渡ります。

そこで、「フランダースの犬」のテーマと出会います。

罪のない動物たちの受難、庶民の窮乏、

身分違いの恋愛がたどる悲惨な運命、

芸術の保護が芸術を攻撃するものとなること

どうして「フランダースの犬」の大人たちは意地悪なのだろうか?

 あの作品に登場する大人たちはほとんど意地悪というかネロの扱いがひどい

記憶があります。

優しいのっておじいさんと、ネロを探しに来る審査員の人くらいじゃなかったかな。

なんでだろ?と思ってましたが、これはどうやら作者のフランダース人に対する印象が

元のようです。作者曰く、

フランダース人とワロン人に、フランス人の礼儀正しさはみじんも

見られません。

彼らは乱暴で不作法、たとえ都会育ちでも田舎者のままで、

「乞食党」の御しがたい厚かましさは鳴りを潜めています。

仲間には優しく、畜生に厳しい。利口で辛抱強く、

慎ましいうえに勤勉で、よいところはいくらでもある人たちですが、

礼儀はわきまえていません。

ストーリー上の過剰演出かと思っていましたがそうでもないようで…。

死去。そして物語は日本へ。

1908年、ウィーダは亡くなります。

ベストセラー作家の死に、新聞には長い追悼記事が掲載されます。

ニューヨーク・タイムズに載ったその記事を見た日本人外交官が、

「フランダースの犬」を読み、日本に送ります。

こうして日本に「フランダースの犬」が来たのです。

ハッピーエンド化するフランダースの犬

ネロは幸せな人生を送りましたとさ。

本ではここから第二章に入り、物語の分析、知られていない真実などが

どんどん出てきます。

 

さて、基本的に「フランダースの犬」は悲劇・バッドエンドです。

しかし、アメリカで映像化されるときは「ハッピーエンド」化しています。

(日本ではハッピーエンド化されていない訳ではない)

なぜか?その分析対象として、5作の映画が紹介されています。

 

「少年はその後、愛する少女が暮らす家に引き取られた」

「ネロを評価した審査員の家に引き取られた」

「コンクールで優勝し、”旦那さん”の家で過ごしている」

「大聖堂で”生きている元気な”ネロを抱きしめる」

「ネロの葬儀は夢オチ」

 

以上がその5作の結末なのですが…ちょっと待てええええええええ!

あの結末に流した俺達の涙を返せええええええええ!

著者の映画に対する評価も徹底的に低評価で、ある一つにおいては

どんな風に分析しようとも、はなから何も得られそうにない。

この映画を最後まで鑑賞する事自体、時間の無駄である。

とか

アメリカの実写映画五作品は、いずれも国内外で成功を収めたとは

言いがたく、もちろんフランダースではまったく知られていない。

映画史における存在意義もほとんどない。

とまで言い切ります。

どうしてこうなった?

アメリカの鑑賞者が自国の価値観と自分自身の信頼を失わないように

できている。

そのように作らなければならなかったからではないか?というのです。

貧乏といっても原作とくらべてればたいしたことはなく、

顔が汚れていたり、りんごを1個盗んだりすることにすぎないのだ

と、まるで

トム・ソーヤのような存在

として描き、

アメリカのネロが決まってアメリカンドリームを体現

し、最後に家族ができる事で

この先(キリスト教的な)しつけがなされる事が約束された、

めでたし、という終わり方だ。

最終的に、

物語は薄っぺらく、アメリカの価値観の宣伝である。

製作者たちが原作の結末を受け入れられず、

また映画の興行的に「バッドエンドは受けない」との判断から

このような改変が行われたのではないでしょうか。

日本では大ヒット

どうして「フランダースの犬」だったのか?

これは「誰がこの原作を選んだのか?」という事なのだが、ぶっちゃけ

スポンサー、「カルピス社」の意向です。

当時のカルピス社の社長は熱心なキリスト教信者で、シリーズを

単なる娯楽ではなく、キリスト教とそれがよって立つ価値観を

日本の若い世代に広める絶好の機会だと考えたのだった。

さて、著者は日本のアニメをどう評価したのか。

この辺りから現地のフランダースにおける作品の扱いにも触れられていきます。

まずはアニメの評価から。

まず何よりもアニメというジャンルにおける傑作である。

業界はこの後、底の浅い感動を求める横並びの傾向を強めていくが、

そのなかで熟練の技とノウハウを示す貴重な一品だ。

作画のスタイルがすばらしく、ユーモアも優れている。

そのうえ、物語と登場人物に対する愛情がほとばしっている。

テンポは完璧で、自然と四季の移り変わりに合致している。

物語の構成ははっきりしており、毎回見覚えのある場面が

はさまれるのにもかかわらず、飽きさせない。

べた褒めです。

ここまで褒められると、アニメを見た人間としては嬉しいですね。

現地ではどう見られるか

こんどはフランダースでの扱い。

まず、現地ではアニメはもちろん原作ですら埋もれていることを

覚えておいてください。その上で。

まず、現地フランダースではアニメの風景がオランダに見えるそうです。

これは日本人にとっては「ふーん」くらいで済むかもしれませんが、

現地ではとてデリケートな問題のようで。

フランダースがオランダのように見えるというのは、

大勢のフランダース人にとって我慢ならないことだ。

どれくらいデリケートな問題なのかというと、

日本人を中国人と混同することに近いかもしれない

らしいです。

 

最終話、ネロが天使に囲まれるシーン。

日本だと宗教的な印象をうけ、涙を流した人も多いですが

筆者がアニメの映像を見せたフランダース人は誰一人として、

神父でさえも、その印象を宗教的であるとは表現しなかった。

ばかにしたような反応がほとんどで、天使の描写についても、

笑止千万、おめでたい、古くさい、大げさすぎると評され、

子どもだましと切り捨てる人までいた。

ボッコボコです。そうなんだ…。筆者は、

「この結末こそがアニメ版が外国でヒットしなかった理由ではないか?」

と分析していますが、ここまで評価が分かれたらそれはヒットしないですよね…。

「フランダースの犬」はいらない、アニメの聖地巡礼とかバカじゃないか

 もう「フランダースの犬」はいらない

日本人が「フランダースの犬の舞台であるアントワープ」に行くという行為は、

日本人なら理解できます。別にオタクの聖地巡礼だけが存在する訳じゃないです。

きっと、のどかな自然あふれる風光明媚な場所を期待していくでしょう。

そんなものはもう存在しないんですが。

この物語は観光局の方針にそぐわないのだ。

アントワープとしては、街とこの物語を結びつけて考えたくない。

年配の年代しか興味を持たず、若い世代は物語を知らないために

そっぽを向くような「古くさい」イメージにつながる

おそれがあるからだ。

アニメの聖地巡礼とかバカじゃないか

フランダース人としては、何百万もの日本人がひとつの物語の

思い出のためにアントワープの大聖堂を訪れ、その場にいることに

感きわまるなど考えられない。

フランダース人はこの種の感傷的な行為を小ばかにさえするし、

それがまた日本人の驚きにつながる。

凄い扱いされてますね…。

どうして好きではないのか

そして筆者が最後に問うのが

フランダース人はなぜネロとパトラッシュのことが

好きではないのだろう。

という事です。

それは、

フランダース人が本来受け付けない、あるいは認めたがらない

要素が入っている。

からではないか?というのが筆者の分析です。

つまり、フランダース人にとってフランダースの犬は

自分たちの黒歴史を記録し、性格の悪さをこれでもかと見せつけ、

村人根性をでしかなく、よそで作られたイメージに従う必要はない…。

そりゃまあ黒歴史をこれでもかと示された揚句に自分の駄目なところを

これでもかと示されたら好きになるわけがないですよね。

まとめ

以上ざっくりと中身に触れてきましたが、世界でこんなに扱いが違うのかと

驚きました。自分たちの知らない別の物語ってこんなに驚きがあるのかと

改めて思いましたね。

本当に面白いので、読んでみてください。

 

 

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