【書評】暇と退屈って一緒じゃないの? 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』感想。
國分功一郎
『暇と退屈の倫理学』
を読んだよ!
ざっくりまとめ
人類にとって暇と退屈って一体何なんだ?
もうちょっと詳しく
誰しも「暇だ―」とか「退屈なんだよなー」とか「貧乏暇なしってね」
とか言った事があると思います。
この本は、そうした「暇」「退屈」について、人類や社会との関連について
書かれた本です。
人にとって「暇」「退屈」とはなんだ?
人間は豊かになると不幸になる?
哲学者であるラッセル曰く、「人間は豊かになるとやる事がなくなって不幸になる」
らしいですけど、いくらなんでもこれは無理筋じゃないか?
また別の哲学者曰く、「供給が需要に先行している」つまり、社会・企業が
消費者に趣味嗜好を押しつけているらしいです。
例えばインスタがなければインスタ映えを求める事がないように、
「自分がやりたい事を企業や社会から与えられている」ということになります。
しかもようやく手に入れた自分の時間をつかってですよ?
これは不幸ではないのだろうか?
なぜ不幸を自分で選ぶのか?
じゃあなんでわざわざ与えられてしまう不幸を自分で選んでしまうのか?
パスカル曰く、「人間は部屋で一人でいる事、すなわち退屈を我慢できない」
からだそうです。例としてウサギ狩りをする人について考察されていますが、
それをまとめると「ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しい訳ではない。”ウサギを狩るという行為”が欲しいのだ」という事になります。
オーケー、じゃあウサギが手に入らなくてもいいんだな?という事になりますよね。
その通り!そういった負の要素すら楽しむのです。
無双ゲーやチートで無双が飽きるように、負の要素がない物は楽しめない。
負の要素とは「苦しみとか負荷」と言えるから、不幸ともいえますよね。
つまり人間は退屈すると不幸に自分で突っ込むものなのです。
人類はいつから退屈するようになったのか?
定住生活が退屈を生んだ?
はるか昔人類が移動しながら生活していた時は、行きたい所に行き、
食べ物がとれなくなったら住むところを変えていました。
しかし、定住生活を送るようになることで、移動生活の時に使われていた能力を
使う事が無くなったことで「退屈」がうまれたのではないか?
と考察されています。
これは納得のいく考えで、少し前に「定年を迎えて会社に行く事が無くなったら、やる事が無くなって退屈だ」というのと通じるところがあります。
暇と退屈を混同していないか?
暇と退屈は同じように考えられていますが、実はまったく別のものだとしています。
「暇」と「退屈」の組み合わせは四つあって、
暇で退屈だ。
暇で退屈ではない。
暇ではなく退屈だ。
暇ではなく退屈でもない。
…よくわからないですね。
しかし、「1時間に1本しか電車が無い駅で電車を待っている」時などは
暇で退屈ですよね。
でも「電車を待っている間にソシャゲをやっている」となると
暇かもしれませんが退屈はしてませんよね。
自分が今どの状態かを考えると、効率のよい「暇つぶし」ができるかもしれませんね。
まとめ
この本はかなり分厚く、上に書いた分でまだ4分の1にも到達していません。
この後、労働と暇の話や時間感覚の話など色々あります。
あまり深く考えられる事のない「暇」と「退屈」ですが、
こうして一冊の本になると中々どうして考察しがいのある存在ですね。
いい「暇つぶし」になると思うのでおすすめします。
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